『ミッシング』
𠮷田恵輔監督に石原さとみが出演直談判した<あたしが変わるトリセツショー>、娘の失踪事件に疲弊する夫婦を描いた、心がヒリヒリする作品。
公開:2024 年 時間:119分
製作国:日本
スタッフ
監督・脚本: 𠮷田恵輔
キャスト
沙織里: 石原さとみ
豊: 青木崇高
圭吾: 森優作
美羽: 有田麗未
砂田: 中村倫也
三谷: 小野花梨
不破カメラマン: 細川岳
番組デスク: 小松和重
村岡刑事: 柳憂怜
勝手に評点:
(一見の価値はあり)
コンテンツ
あらすじ
沙織里(石原さとみ)の娘・美羽が突然いなくなった。懸命な捜索も虚しく3カ月が過ぎ、沙織里は世間の関心が薄れていくことに焦りを感じていた。
夫の豊(青木崇高)とは事件に対する温度差からケンカが絶えず、唯一取材を続けてくれる地元テレビ局の記者・砂田(中村倫也)を頼る日々。
そんな中、沙織里が娘の失踪時にアイドルのライブに行っていたことが知られ、ネット上で育児放棄だと誹謗中傷の標的になってしまう。
世間の好奇の目にさらされ続けたことで沙織里の言動は次第に過剰になり、いつしかメディアが求める“悲劇の母”を演じるように。
一方、砂田は視聴率獲得を狙う局上層部の意向により、沙織里や彼女の弟・圭吾(森優作)に対する世間の関心を煽るような取材を命じられてしまう。
レビュー(まずはネタバレなし)
あたしが変わるトリセツショー
愛する娘が失踪し、必死になって探し続ける夫婦の物語。普通はまず楽しい三人家族の様子がしばらく描かれたあとに、突如娘がいなくなり、慌てる様子を撮りたくなるものだろう。
だが、𠮷田恵輔監督は、そんな段取りを作らず、冒頭で一瞬子どもの姿が映ったあとは、すぐにチラシ配りの光景に入る。タイトル同様、直球勝負のひとなのだ。
◇
本作は石原さとみのための映画だ。6年前に、𠮷田監督の作品に出たいと直談判したという。女優としての今後に不安を覚え、自分を変えてくれる監督と仕事をしたいと思ったそうだ。𠮷田監督が書く「あたしが変わるトリセツ」。
『シン・ゴジラ』では英会話のイーオン仕込みの英語を披露し、ドラマ『アンナチュラル』では野木亜紀子脚本の冴えで高い評価を得ていた頃だ。女優として順風満帆の時期だったろうが、きっと、彼女は心配性なのだろう。
いずれにせよ、𠮷田恵輔は本作の脚本を書き終わり、やたら情熱があった彼女を主演に起用しようと考える。
本作のどこかワンカットを見るだけで、彼女の本気モードが伝わる。
美しい顔立ちと艶めかしい唇は変わらないが、化粧っ気もなく、着るものもパーカー、娘探しに追われ、人目に気を使う余裕がない母の姿がそこにある。港区女子的なオーラもなく、健康的な笑顔も封印される。
泣くだけでなく荒れ狂う母
幼い娘が近所の公園から自宅に戻る際に何者かに連れ去られた。
警察はまるで役に立たず、沙織里(石原さとみ)はすがる思いで夫の豊(青木崇高)と街頭でチラシ配り。事件が風化しないよう、静岡のローカルテレビ局で、報道の砂田(中村倫也)が取材を続け番組内で放映してくれる。
娘の情報を求めて必死に駆けずり回る母の姿は同情を誘うが、ただの気の毒なキャラで終わらせるほど𠮷田監督はお人好しではない。
沙織里はその日、娘を置いて推しのバンドのライブに出かけていた。それがSNSで育児放棄だと叩かれ、炎上するコメント欄をみて彼女は荒れる。
それ以外にも、結局は視聴率目当てで親身になってくれないテレビ局に批判の矛先を向けたり、失踪当日に公園から娘を一人で帰した弟の圭吾(森優作)を非難したり、あげくには夫にまで、自分の必死さとは温度差があると喧嘩が絶えない。
イライラするあまり、周囲への攻撃は過激になっていく。特に、母(美保純)や弟など、身内には辛辣だ。それだけギリギリの状態なのだろう。こんな攻撃的な石原さとみは見たことがない。
彼女を取り巻く男性陣
対照的に、彼女を取り巻く男性陣はみな沈着冷静だ。
夫の豊は妻のように取り乱したり、慌てふためくこともない。それを温度差があると文句を言ったり、「本当はライブに行った私を責めているんでしょう!」と泣き喚いたり、情緒不安定な妻を支える。
私なら、つい負けずにヒートアップしてしまいそうだが、青木崇高の包容力は立派。
一方、テレビ局の砂田。上司や後輩たちが視聴率競争に目の色を変える中で、彼だけが沙織里たちに寄り添って娘が戻ることを願っている。
いつもの中村倫也に輪をかけて静かで落ち着いた印象だが、彼のおかげで映画に安定感が生まれる。新入社員の三谷(小野花梨)とのやりとりは、二人が出ていた『ハケンアニメ!』のよう。
そして沙織里の弟の圭吾(森優作)は、犯人ではないかと疑われる存在。話すことが苦手そうな人物だが、どうみても役者には見えない素人っぽさが、彼の持ち味なのだろう。圭吾の出演場面は、どこも緊張感が漂う。
◇
娘の消息を必死に追い求め、心も体もボロボロになっていく夫婦。それを無神経に追い詰めて、騒ぎ立てるSNS上の匿名の加害者たち。更には、悪質ないたずらが彼女に追い打ちをかける。
石原さとみの気迫溢れる演技には、心を鷲掴みにされる。𠮷田監督の『空白』では片岡礼子が、やはりこのようなピークアウトしてしまう母を演じていたのを思い出す。
レビュー(ここからネタバレ)
ここからネタバレしている部分がありますので、未見の方はご留意ください。
何でもないようなことが
娘が落書きした壁の絵に、プリズムのように陽光が差し込んだり、扇風機の音で娘が唇をブルブルと震わせて遊んでいたのを思い出したり。細かい演出も行き届いている。いくつか拾い上げてみる。
◇
商店街をトボトボ歩く沙織里とはまったく無関係に激しく口喧嘩する見知らぬ男女は、失踪事件とは無関係に動いている世間を伝えたかったのか。
沙織里が弟の圭吾と激しく口論するクルマの中で流れ続けるラジオ放送のパーソナリティの声は邪魔に感じたが、そこから沙織里の推しのバンドの曲になるとは。
そして、取材中に涙ながらに彼女が語る。
「壁の落書きをあんなに怒るんじゃなかった。何でもないことが、幸せだったんだなあって…」
ここは泣けるシーンなのに、私の頭をよぎった言葉を、取材カメラマンの不破(細川岳)が代弁してくれる。え、これネタだったのかと、驚く。ある意味、彼女の失禁シーンよりも衝撃的だった。
𠮷田恵輔監督は、常に場面のどこかに遊び心を持っているというか、観る者をどや顔で泣かせることに照れくささがあるのかもしれない。
アンナチュラルの沼
ここからは、個人的な思いが相当入ってしまうのだが、私は石原さとみの『アンナチュラル』の野木亜紀子脚本、塚原あゆ子演出が大好きだ。
本作はそれに引っ張られないように観たつもりだが、娘を「美羽、美羽!」と連呼するたびに、シリーズの刑事ドラマ『MIU404』を連想してしまって、野木亜紀子沼に引きずり込まれてしまう。
◇
何が言いたいかというと、『アンナチュラル』の石原さとみだったら、最後には必ず結果をつかみ取るはず、と本作にも期待してしまうのだ。
犯人が誰なのか、娘は無事なのか、そういうものが見事に予想を超えて解決するところが、あのドラマの醍醐味だった。その爽快感を知ってしまった者には、本作の結末は一縷の希望こそ感じさせるが、まるでスッキリしない。
弟・圭吾の犯人説はまずないとして、彼が後日に目撃したものから解決が導かれるという、期待通りの王道パターンを取らないところが、𠮷田恵輔監督の確信的采配なのだろう。ここは好みが分かれるところかな。