『そして父になる』
是枝裕和監督が福山雅治を主演に迎え、取り違えの子供を巡る二家族を描く。
公開:2013 年 時間:120分
製作国:日本
スタッフ
監督・脚本: 是枝裕和
キャスト
野々宮良多: 福山雅治
野々宮みどり: 尾野真千子
野々宮慶多: 二宮慶多
斎木ゆかり: 真木よう子
斎木雄大: リリー・フランキー
斎木琉晴: 黄升炫
上山一至(良多の上司): 國村隼
鈴本弁護士: 田中哲司
秋山(病院職員): 小倉一郎
織間(病院側弁護士): 大河内浩
野々宮大輔(良多の兄): 高橋和也
野々宮のぶ子(良多母): 風吹ジュン
野々宮良輔(良多の父): 夏八木勲
石関里子(みどりの母): 樹木希林
宮崎祥子(元看護師): 中村ゆり
勝手に評点:
(一見の価値はあり)
コンテンツ
ポイント
- 子供の取り違えというテーマの重さもあって、観るたびに胃が重くなる。福山雅治演じる鼻持ちならないエリート亭主と、リリー・フランキー演じる子供好きの家庭的な田舎の電器屋亭主。
- 子供目線では後者の圧勝で、さすがの福山も終始苦戦を強いられる。子役の二人が良かったので、親よりもっとフォーカスしてほしかった。
あらすじ
大手建設会社に勤務し、都心の高級マンションで妻と息子と暮らす野々宮良多(福山雅治)は、人生の勝ち組で誰もがうらやむエリート街道を歩んできた。
ある日、病院からの電話で、6歳になる息子・慶多(二宮慶多)が出生時に取り違えられた他人の子どもだと判明する。
妻のみどり(尾野真千子)や取り違えの起こった相手方の斎木夫妻(リリー・フランキー、真木よう子)は、それぞれ育てた子どもを手放すことに苦しむが、どうせなら早い方がいいという良多の意見で、互いの子どもを<交換>することになる。
今更レビュー(ネタバレあり)
一本の電話から始まる悲劇
是枝裕和監督が福山雅治を主演に迎えた、病院での子供の出産時の取り違えを題材にした家族ドラマ。カンヌ国際映画祭ではコンペティション部門に出品され審査員を受賞。
この映画は何度か観ているが、実に重たい内容で、毎回胃にずっしりとくる。
◇
ホテルと見紛うような高級タワマンで雲上暮らしを決め込む大手ゼネコン勤務のエリート・野々宮良多(福山雅治)と従順な妻みどり(尾野真千子)、そしてお受験まっしぐらの一人息子の慶多(二宮慶多)。
絵に描いたようなスタイリッシュな生活だが、ある日突然、みどりが出産した田舎の実家近くの病院から連絡が入る。
同日に出産した他の子供が親と血液型が合わないことで、事象が発覚。考えられるのは慶多との取り違えだと言われ、DNA鑑定結果がそれを裏付ける。
相手の家族は、夫が田舎町で小さな電器店を営む斎木雄大(リリー・フランキー)、元気な妻は斎木ゆかり(真木よう子)、そして取り違えられた長男の琉晴(黄升炫)のほか、弟と妹がいる大家族。
エリート臭がただよう野々宮家の静かできれいな部屋と対照的に、おもちゃ箱をひっくり返したようなワチャワチャ感と喧騒に溢れた斎木家。『天国と地獄』とのようだといったら斎木家に悪いが、この記号的な対比は分かりやすい。
エリート臭がハンパない
さて、病院からは、丁寧な謝罪はあるものの、子供たちのためにも、早々にそれぞれの子供を<交換>すべきだと遠まわしに薦めてくる。
病院職員に強面のキャラではなく小倉一郎を起用するあたりがうまい。憎まれ役にもならず、強く責めるのも気が引ける人選。
野々宮家の都会の洗練された生活をベースラインにすると、病院から慰謝料なり経費請求を少しでも多くふんだくろうと躍起になる斎木の姿勢が、はじめは田舎じみて見える。
だが、子供との接し方をみると、斎木夫妻は慣れているし、温かみもある。というか、子ども目線でみたら、どうしたって斎木家の方が魅力的なのだ。いや、この展開は興味深い。
ただ、いや、だからこそなのかもしれないが、私は正直申し上げて、この作品が苦手だ。作品自体はよく練られていると思うし、特に是枝監督の得意とする子役のドキュメンタリータッチな演出法は、本作でも実に冴えている。
慶多はいかにも大事に育てられた風のおっとりした少年だし、琉晴は元気にたくましく育ってきた子供らしさに溢れている。
◇
私が苦手なのは、福山雅治の演じる野々宮良多が、あまりに自分勝手で未成熟な人物だからだ。福山雅治が主演の作品で、彼に感情移入できないというのは珍しいことではないか。ガリレオ教授も偏屈ものだが、野々宮よりははるかに人間味がある。
二人ともくれませんか
子供の頃から頑張り続け勝ち進み、今の生活を勝ち取った野々宮には、我が子にもそうあるべきという確固たる思いで厳しく育てる。
自分が父親(夏八木勲)を憎んでいながら、同じように厳しく突き放した子育てをしてしまう皮肉。
でも、思うように慶多は成長しないと内心不満がある。だから、取り違えを知った時、野々宮は思わずつぶやいてしまう
「やっぱりそういうことか」
頑張って結果を出せない息子は、自分に似ていない。それは、妻・みどりが一生許せない言葉となった。
それならば、今後自分たちに似てくるであろう実の子を、一日も早く手元に置くべきではないか。だが、ゆかり(真木よう子)はいう。
「似てる似てないにこだわるのは、親の実感がない男だけよ」
◇
上司(國村隼)に入れ知恵されて、野々村はカネの力で二人とも我が子にしてしまう奇策を本気で考え、斎木夫妻にイオンモールでその話を持ち出す。
「二人とも、くれませんか。いえ、おカネなら…」
「お前、子どもカネで買うんか。負けたことのない奴は恐ろしいことを考える」
この辺から、完全に一人アウェイ状態の野々宮。妻にも見放される。
時間だよ。子供は時間
週末に交換のホームステイを始めた頃からの、野々宮家と斎木家の対比が面白い。みんなで餃子パーティの斎木家に対し、高級そうな牛肉でスキヤキの野々宮家。
壊れたオモチャを修理してくれたり、凧揚げがうまかったり、風呂に一緒に入ってバカをやったり、狭いながらも楽しい我が家を地で行く斎木家。野々宮にできることといえば、ハシの持ち方を正すくらいか。
白状すると、私が本作に苦手意識を持ってしまうのは、おそらく私の子育て流儀は、どちらかといえば野々宮に近いからなのだ。
念のために申し上げると、私は福山雅治に似ても似つかないし、高級タワマンにも住んでいないし、エリート臭を漂わせているわけでもない。
だが、ボーネルンドみたいな遊び場で子供たちとバカ騒ぎするリリー・フランキーと、斜に構えて遠くで眺めている福山雅治ならば、私は確実に後者に近い。
子供にあるべき論で接してしまう私の教育方針も、どこか野々宮家風である。だから、この作品で子供に懐かれる斎木を、私は妬ましく見てしまう。
「時間だよ。子供は時間。一緒にいる時間やろ」
斎木のその言葉は、野々宮のみならず、私の胸にも突き刺さる。
ミッションはつらいよ
結局、血のつながりを大事にすることで、子供の交換を成立させる両夫妻。
野々宮は慶多に、「これからは向こうの家で暮らしなさい。慶多が強くなるミッションだ」と告げ、一方迎え入れる琉晴には数多くの家のルールを読ませ、「これからは、私たちをパパ・ママと呼びなさい」という。
なんと高圧的なことか。でも、慶多と違い琉晴は逞しい。
「パパ・ママと呼べ」「何で?」
「どうしてもだ」「何で?」
やりとりが続くハラハラ感。
何日間か過ごすうちに、次第に琉晴が可愛くなっていくみどり(尾野真千子)は、「慶多に申し訳ない気がする」と涙する。
本作ではそういう双方の親の苦悩、血のつながった子供への切実な想い、今日まで育てた他人の子への強い愛情や罪悪感といった、様々な感情の起伏が交錯するはずだ。
だが、多くの映画的な題材を捨象して、福山雅治中心の映画にしてしまった。これはちょっと勿体ない。
是枝作品がドキュメンタリータッチなのは当然なのだろうが、この題材にはもっとメロドラマ的な要素が多分にあったはずだから。
病院との裁判や野々宮を妬んで犯行に及んだ元看護師(中村ゆり)の存在、或いは野々宮自身の義母(風吹ジュン)との関係など、盛り上げられる余地はいろいろあったのに。
出来損ないのパパ
野々宮は、慶多が父の一眼レフで知らないうちに撮っていた自分の寝姿の写真を見つけ、涙する。
ここでようやく、野々宮は引き取られた斎木家まで慶多に会いに行く。樹々に隔たれた並行する道を歩く二人。
先を行く息子に「約束破って、会いにきちゃったよ。出来損ないだけど6年間はお前のパパだったんだ」と語りかけ、最後に抱擁する元父子。
ロケーションの妙はあるが、父子関係はぎこちない。福山雅治と少年の組み合わせも『真夏の方程式』の方が自然だったように思う。
本作はタイトル通り、大人目線、父親目線の映画なのだろうが、本来、一番の被害者というか、ケアしなければいけない相手は当の子供たちであるはず。
にもかかわらず、いきなり両親から「あっちの家の子になれ」と言われた慶多も琉晴の心情が、強く伝わってくる場面が少ない。これは、子役の二人が良かっただけに、物足りない気がする。
あんなとってつけたような謝罪だけで、出来損ないの父親を簡単に許してはいかんぞ。そう慶多に伝えてあげたい。