『ROMA/ローマ』
ROMA
この作品のためにNETFLIXに申し込んだ人も多いはず。芸術的ながら退屈はさせない、贅沢な映像体験。キュアロン監督、渾身の一作。
公開:2019 年 時間:135分
製作国:メキシコ
スタッフ 監督: アルフォンソ・キュアロン キャスト クレオ: ヤリッツァ・アパリシオ ソフィア: マリーナ・デ・タビラ アントニオ: フェルナンド・グレディアガ フェルミン: ホルヘ・アントニオ・ゲレーロ ペペ: マルコ・グラフ ソフィ: ダニエラ・デメサ トーニョ: ディエゴ・コルティナ・アウトレイ パコ: カルロス・ペラルタ アデラ: ナンシー・ガルシア ラモン: ホセ・マヌエル・ゲレロ・メンドーサ テレサ: ヴェロニカ・ガルシア
勝手に評点:
(オススメ!)
コンテンツ
あらすじ
70年代初頭のメキシコシティ。若い家政婦のクレオ(ヤリッツァ・アパリシオ)は、中産階級の家で働いていた。
雇い主である医者の夫アントニオ(フェルナンド・グレディアガ)と妻ソフィア(マリーナ・デ・タビラ)、彼らの四人の子どもたちと祖母テレサ(ヴェロニカ・ガルシア)。
子どもたちの世話や家事に追われる日々の中、クレオは同僚アデラ(ナンシー・ガルシア)の恋人ラモンの従兄弟である青年フェルミン(ホルヘ・アントニオ・ゲレーロ)と出会い、恋に落ちる。
一方、アントニオは長期の海外出張へ行くことになる。
レビュー(まずはネタバレなし)
日本よ、これも映画だ。
政治的混乱に揺れる1970年代のメキシコを舞台に、四人の子供たちのいる中産階級の家庭の激動の一年を、若い家政婦の視点から描いた作品。
公開当初は、NETFLIXでしか観られない作品を映画と呼んでいいのか、盛んに議論が行われていたものだ。
だが、あれよあれよという間に、ベネチア国際映画祭金獅子賞、アカデミー賞でも外国語映画賞、監督賞、撮影賞を受賞するなど、そんな議論を吹き飛ばす高評価を見せつけた。
配信後に日本で劇場公開もされ、かくいう私も本作観たさにNEFLIXに加入申込みしたクチである。
◇
映画としてはどうか。アルフォンソ・キュアロン監督が自らの幼少期の記憶をもとに、彼を育ててくれた女性をモデルにクレオを主役にした映画を作った。
自伝的要素の強さからか、脚本自体に際立つものがある訳ではない(と私は思った)。だが、ややもすれば散漫になりそうな、その物語を支える、映像的なセンスが素晴らしい。
冒頭のワンカットでヤラれてしまう
この作品に共鳴できる人は、冒頭の長回しのショットに、もうヤラれてしまうだろう。
邸宅の床のタイルのアップ、そこに波打つように寄せてくる泡立った水。ブラシで床を掃除する音。水が溜まった時だけ映り込む窓の外、そこに飛行機が飛んでいく。
◇
こんなにも静謐なのに、変化に富んだオープニングの映像は、他に思い出せない。モノクロなのに、空の青さがそこにある。
この冒頭のカットは、本作は字幕頼りにストーリーを追いかける映画ではなく、ひとつひとつ説明なく流れていく映像に、きちんと向き合うべき映画なのだと、観る者に気づかせてくれる。
◇
ここから映画は、アントニオとソフィアの夫妻と四人の子供たちの暮らす家で、家政婦として働くクレオの日常を映し出していく。
その場面の切り取り方と静けさはどこか小津安二郎的であるが、画面の中の空間の広がりはとても大きい。
大きな吹き抜けのある邸宅の空間のとらえ方をはじめ、広い屋上の隅々に洗濯物がはためいている中でクレオや子供たちの動き、あるいは後半の野外の武道訓練場や海水浴場など。
カメラは広大な空間の隅々までシャープにとらえ、そこに多くの出演者が芝居をしている。
◇
それこそ映画における空間の扱いなど、キュアロン監督は『ゼロ・グラビティ』の宇宙空間の処理で極めてしまったのかもしれない。この作品の空間処理は実に気持ちよい。NETFLIXなのに、大きな画面で観ているような気になる。
それにしても、中盤に出てくる映画館のスクリーンの大きいことよ。昨今主流のシネコンではとても敵わない。
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本編では終始カメラを横に動かすことに専念しているのに、最初と最後の邸宅内のショットだけは縦の動きになり、最後には飛行機のおまけつきなのも、広がりを感じさせる。
レビュー(ここからネタバレ)
ここからネタバレしている部分がありますので、未見の方はご留意願います。
ローマ、メキシコシティ
70年代のメキシコシティの雰囲気を出すのに、広大なセットを組んだそうだ。確かに、現代の街並みでは、あの空気感は再現できないだろう。ここはセットのリアルさに感心する。
映画を観始めて英語圏の作品ではないことはすぐ分かるのだが、どうもイタリアとも全く関係なさそうだ。
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実は、タイトルのROMAはメキシコシティのローマ地区を舞台としていることに由来するらしい。ヴィム・ヴェンダース監督の『パリ、テキサス』みたいなものか。
なら『ローマ、メキシコシティ』としてほしいところだが、AMOR(愛)の逆さ読みなどともいわれている。ウディ・アレンの『ローマでアモーレ』なんてのもあったぞ、紛らわしいな。
そこはボカシてくれてよいのに
だが、実際、愛の逆さまみたいな話では、ある。家政婦のクレオが同僚の紹介でダブルデートした相手フェルミンと恋仲になる。
この男が食わせ者だ。彼女の前でフリチンになって、カーテンレールの棒を振り回して武術の演習を披露する。ここはボカシでいいのに、NETFLIXは気前よく、クリア映像を配信してくれる。
どんだけ男らしいヤツなのかと思っていると、クレオに妊娠を告げられると、瞬時に映画館からトイレに行くふりで失踪するような輩である。
◇
男に逃げられたクレオは、解雇を心配しつつも、妊娠をソフィアに報告する。クレオは子供たちには慕われているが、夫妻には厳しく扱われているように見えた。
だが、実はソフィアは優しい人物だったことが、最愛の夫アントニオが女を作って、家族を置いて出て行ってしまったことから分かってくる。この離婚話もまた、愛の逆さまの一例だ。
フェルミンといいアントニオといい、本作の男どもはクズ揃いなのだが、女性陣はたくましい。
家長であるアントニオが出て行ったことにソフィアも、そして後には子供たちも、打ちひしがれるが、立ち直りも早い。
父の威厳の象徴であった大型車のフォード・ギャラクシーは、妻の乱暴な運転でボロボロになり、自宅の車庫入れも楽々の小型車へと買い換えられる。
全体的に重苦しい話が多い本作にあって、神業的な正確さで大型車をピタリと車庫入れしたり、飼い犬の糞をタイヤでも靴でも踏んでしまったりするシーンは、コメディリリーフとして使われている。
出産からクライマックスへ
さて妊娠したクレオは、フェルミンの居場所を突き止めて武道演習場まで押しかけるも、「俺が父親のはずがない。帰れ、召使いめ!」と逆ギレされる始末だ。
更に、雇い主の祖母テレサ(ヴェロニカ・ガルシア)とベビーベッドを買いにいくと、学生のデモ隊と警官隊の衝突に遭遇する。
そして武装集団ロス・アルコネスの中に、フェルミンを見つけるのだ。クレオはショックで破水してしまう。
◇
死産してしまうシーンは悲しい。赤ちゃんは産声をあげない。一度だけ我が子を抱くクレオも、放心状態だ。だが、ストレートに哀しみを表現しない。
出産直後に我が子を失くしたというのに、取り乱すこともない。『私というパズル』の主人公とは、感情表現がまるで異なる。
これがクライマックスの浜辺のシーンにつながる。クレオは泳げないのに、溺れかけた子供たちを救おうと海に入っていく。
カメラが右へ右へとクレオを追って海に入っていくと、大きくうねる波の中で子供たちがもがいている。ダイナミックな映像だ。
何とか救出し、みんなで砂浜で身体を抱き合い一つの塊のようになるシーンは、宗教画のようだ。逆光が美しい。
◇
そして、ここにきて初めてクレオはみんなの前で感情をむき出しにして叫ぶ。「(赤ちゃんは)欲しくなかった。生まれてほしくなかったのだ」と。
クレオは、祝福されずに生まれてくる我が子をかわいそうに思い、自身では罪悪感を抱えていたのだ。そして、そんなクレオを、ソフィアや子供たちが、愛情で包み込む。
死と生の予感
思えば、子供たちがふざけ半分に死を意識させるセリフを吐いたり、病院の新生児室で地震が起きたり、墓地がでてきたり、武装集団の虐殺騒ぎがあったりと、本作には随所に死を意識させる要素がある。
妊婦が火事を見るシーンも、日本などでは不吉な迷信に挙げられるが、メキシコではどうなのか。
これらの暗示するものが、死産そして終盤の海難事故騒動となるのだろう。
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だが、そんな中で、生まれてくるはずの子を失くし、あるいは夫や父親が出て行ってしまい、残された者同士が愛を分かち合って生きて行こうとする。
そういう映画なのだ。子供たちやソフィアと再び暮していこうと、ラストで屋上の物干し台に向かうクレオは、どこか清々しい。
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そして、縦変化のカメラの先にある上空には、今日も飛行機が飛んでいる。本作がきっかけで、今も私はNETFLIXの常習者から抜けられずにいる。