『銀河鉄道の父』
門井慶喜の直木賞受賞原作を、成島出監督が映画化。タイトルロールの宮沢賢治の父を、成島作品の常連、役所広司が演じる。
公開:2023 年 時間:128分
製作国:日本
スタッフ 監督: 成島出 脚本: 坂口理子 原作: 門井慶喜 『銀河鉄道の父』 キャスト 宮沢政次郎: 役所広司 宮沢賢治: 菅田将暉 宮沢トシ: 森七菜 宮沢イチ: 坂井真紀 宮沢清六: 豊田裕大 宮沢喜助: 田中泯
勝手に評点:
(悪くはないけど)
コンテンツ
ポイント
- 新しい時代の父親像を模索する父親役の役所広司も、宮沢賢治役の菅田将暉も好演しているのだが、全体の泣かせと笑いのバランスが映画独特で、門井慶喜による直木賞受賞原作の読後感とは異質なものとなっている。こういうのが好きな人もいるとは思うが、いくら笑いの要素を入れても、病死続きの内容は重たい。
あらすじ
岩手県で質屋を営む宮沢政次郎(役所広司)の長男・賢治(菅田将暉)は家業を継ぐ立場でありながら、適当な理由をつけてはそれを拒んでいた。
学校卒業後は農業大学への進学や人工宝石の製造、宗教への傾倒と我が道を突き進む賢治に対し、政次郎は厳格な父親であろうと努めるもつい甘やかしてしまう。
やがて、妹・トシ(森七菜)の病気をきっかけに筆を執る賢治だったが…。
レビュー(ネタバレあり)
宮沢賢治とその父・政次郎
門井慶喜が直木賞を受賞した同名原作を、かねてより宮沢賢治には関心が高かったという成島出監督が映画化。
◇
宮沢賢治には、生誕100年にあたる1996年に松竹が三上博史で『宮沢賢治 その愛』(神山征二郎監督)、東映が緒方直人で『わが心の銀河鉄道 宮沢賢治物語』(大森一樹監督)を競うように公開している(その15年後に小惑星探査機「はやぶさ」の映画が乱立競合したのを思い出す)。
両作品とも賢治を偉人としてとらえている伝記映画であるのに対し、本作はあくまで賢治の父・宮沢政次郎を主人公にしている点がユニークだ。
菅田将暉演じる賢治もけして聖人君子ではなく、どちらかというと頼りなくて危なっかしい若者に描かれている。
政次郎を演じるのは、成島出監督のデビュー作『油断大敵』以来、『聯合艦隊司令長官 山本五十六』、『ファミリア』に続く4作目の主演となる役所広司。
過去の伝記映画でも、政次郎は仲代達也や渡哲也をキャスティングする重要な役だが、役所広司はそれをコミカルに新時代の父親像として演じている。
お前は父であり過ぎる
映画は冒頭、男児が生まれたとの電報を握りしめて、夜汽車で花巻に帰る政次郎。青紫に美しく光る夕空と汽車は、銀河鉄道の名にふさわしいオープニングだ。
祖父・喜助(田中泯)が孫に付けた名は賢治。宮沢家は質屋を営む裕福な家だが、その家長たる政次郎は、子供の賢治が赤痢で入院すると、家族の反対を押し切って割烹着姿で病室に入り息子の世話をする。
この明治の時代の父親にはありえない、イクメンの先駆けなのだ。「お前は父であり過ぎる」と、喜助に呆れられる政次郎。
時は経ち、中学を卒業した賢治は、「質屋は継がねえ。弱い者いじめでねえのすか!」と父に反発し、進学を願い出る。
質屋に学はいらぬと聞く耳を持たぬ政次郎を、賢治の妹・トシ(森七菜)が「お父さんは新しい時代の父親です」と持ち上げ、うまい具合に進学許可を引き出す。
「人の役に立ちたいのす」という賢治は、農民のために生きると盛岡の農学校に進学を決める。
◇
この辺までは偉人の立身出世のステップに思えるが、その後に賢治は学校はやめると言い出したり、人造宝石の事業を始めて成功するのだとぶち上げたり、日蓮宗に夢中になって家出して上京し国柱会に入信したりと、生き方の方向性が定まらない。
妹・トシとの永訣の朝
本作には三回、人の死が登場する。まずは祖父の喜助だ。トシが女学校を卒業して帰ってくる頃には、すっかり痴呆が進んでいる。
トシが暴れる喜助に「綺麗に死ね」と言い頬を張り、その後に抱き締めるのは無茶な展開だが不思議とジーンとくる。その後、一同白装束の葬列で喜助を送る。
◇
そして、この明朗な性格で一家の中心にいたトシが、結核で学校教師の職を辞し、別荘で療養する。
「お兄ちゃんは日本のアンデルセンになって」と言われていた賢治は、トランク一杯の原稿用紙を抱えて帰省し、『風の又三郎』や『月夜のでんしんばしら』をトシに読み聞かせる。
賢治の作品朗読にあわせて、創作世界の映像化がもっとふんだんに織り込まれるのかと思っていたが、この電信柱くらいしか登場しなかったのはやや残念。
賢治の一番の理解者で愛読者のトシが病床で最期に「あめゆじゆとてちてけんじや」(みぞれをとってきてください)と、『永訣の朝』の詩で知られる台詞を兄の賢治にいう場面には、派手さはないが泣ける。
劇場予告では、お涙頂戴のメロドラマになってしまうのかと危惧したが、しっかり抑制が効いていた。森七菜も好演している。ただ、元気が魅力の彼女に不治の病・結核は似合わず、病床にあってもなお健康的に見える。
◇
トシの葬儀では、火葬炉が故障している設定で青空の下で棺を焼く設定が謎だし、「南無妙法蓮華経!」と狂ったように連呼する賢治の演出もイマイチ原作のイメージとは合わない。
これほどしつこく「南無妙法蓮華経!」の連呼を聞くのは、ジャック・ニコルソンの初期の佳作『さらば冬のかもめ』以来かもしれない。
そして結核の魔の手は賢治にも
「トシがいなければ何も書けない」と慟哭する賢治に、政次郎は「私が宮沢賢治の一番の読者になるじゃ。だから物語を書け」と、再び筆をとらせる。
「俺は、本当はお父さんのようになりたかったのす」
賢治のこの一言は、父親の一人として、私の胸に刺さった。でも、妻も子もまだない賢治にとって、創作こそが自分の子供だ。
「そんなら、私にとってはお前の作品は孫だな。大好きなのは当たり前だ」
この新時代の父は、限りなく優しい。
本作で三回目に死ぬのは、この賢治だ。彼もまた結核に冒されていた。
両親は弟の清六(豊田裕大)から「兄さんは煙草なんか吸ってて、元気そうだったよ」と聞き、病状を察知する。ニコチンは結核菌を弱めるという俗説があったのだ。
娘が結核で亡くなり、そして今度は息子まで同じ病気で先立たれる父親の話というのは、物語としては相当に暗く重たい。映画では原作以上にそう感じた。父のキャラクターをコミカルにすることで多少緩和されてはいるが。
原作との差異
門井慶喜の原作は、引き込まれるように読んだ。花巻弁の会話も郷土色溢れて読んでいて楽しいし、賢治の自由奔放な生き方も、それを大きな愛で包容する父・政次郎の背中にも魅力があった。
そして、賢治に童話を書くようにねだり、背中を押し続けた最愛の読者であった明朗な妹のトシの早逝の場面は、涙なくしては読めなかった。本書を読んだ後、久々に宮沢賢治の著作を読み返してみたほどに、胸に残る作品だった。
映画はけして原作を改悪したものではないのだが、どうも得られる印象はだいぶ異なる。原作との差異では以下が気になった。
- 原作の政次郎には、トシや賢治の最期に「遺言は何か」と迫る、非情さとは違う家長としての責任感があった。単なる優しい父ではなかったはずだが、映画ではその一面が薄らいだ。
- 賢治の死に際に政次郎が『雨ニモマケズ』を諳んじてみせるのは、愛読者の証ということになるのだろうが、誰もが知る詩の暗唱に感情を込めるには限界があり、さすがの役所広司でも感動は生まれにくいと思った。原作とは違うアレンジではないか。この場面には、父子の最後の会話の方が心に残ったように思う。
- 映画では自費出版のあとは、賢治の死後に全集の出版となっている。これは政次郎の自費出版なのだろうか。私には、むしろ盛岡の新聞に賢治の作品が連載される原作のエピソードの方が、作品が後世に認められた感がでている気がした。岩手にちなんだイーハトーブという賢治の造語が映画では登場しないのも寂しい。
まあ、こういった細かい点は人それぞれ感じ方が違うところなので、私以外は誰も気にしていないのかもしれないが。とはいえ、エンドクレジットでかかる<いきものがかり>の曲は、さすがに宮沢賢治の世界観とはイメージ合わないと思うけどな。